水利施設

西岩崎頭首工

那須野ヶ原の中央部は、不毛の地といわれカヤの生い茂る石ころだらけのところで、飲み水にも事欠き生活するにも大変なところでした。
那珂川上流から那須野ヶ原を横切って鬼怒川に至る「大運河構想」に端を発して"まずは開拓農民のための飲料水路を"との請願により政府資金が支出され1881年(明治14年)9月に着工、1882年(明治15年)に飲料水の取水口として完成し、はじめて那須野ヶ原の荒れ地に水が流れたのです。
さらに1885年(明治18年)の水路延長工事により生活用水や農業用水としても利用されるようになり、日本三大疏水の一つに数えられる那須疏水の取水口(西岩崎頭首工)となりました。
その後、洪水等による河床の変化により幾多となく取水口を移設改修してきましたが、築造してから 90余年の歳月が過ぎた施設は、老朽化が甚だしく取水も困難となったことから、1967年(昭和42年) 着工の国営那須野原総合農地開発事業(以下、那須野ヶ原総合開発)によって全面改修が行われました。
工事は1974年(昭和49年) の可動堰部および取水口に引き続き、1975年(昭和50年)の固定堰部および取付水路の施工によって完成しました。
急流河川に設置する頭首工であるため、洪水から頭首工を保護する方法として左右岸の護岸および下流の護床工に留意すると共に、コンクリートの摩耗防止のため主要部に鉄板を張る工法としました。

提長 89m(洪水吐25m、土砂吐10m含む、ローラーゲート各1門)
提高 3.05m 型式フローティングタイプ
計画洪水量 1,200m3/s
流域面積 147.8km2
計面取水量 8.93m3/s(農業用水8.64m/s、上水道0.29m/s)

蟇沼頭首工

蟇沼頭首工は、那珂川水系蛇尾川の、大蛇尾川と小蛇尾川の合流地点のすぐ下流から取水しています。
その開削は1596~1615年(慶長元年~元和元年)まで遡り、当初は接骨木(にわとこ)堀(あるいは素堰堀)と呼ばれ、灌漑ではなく飲用目的に使われていました。
当時の取水口(穴堰)は残存していませんが、現在の取水口付近にあったといわれています。
1781~1789年(天明元年~寛政元年)になり、取水口は約300m下流に移され、明治30年までは欠壊、改修を繰返しながらもほぼ同じ位置に明治期に入り灌漑目的にも供用され、堰も大規模なものが造られるようになりました。
しかし、明治28年から3年続けて洪水に見舞われ、堰、水路が使用不能となり1900年(明治33年)に新たな取水口が造られました。
取水された水は300m余りのトンネルを抜け、開水路へとつながります。
その後、取水口は1918年(大正7年)に10mほど下流に移され、手動式巻上機付水門となり、1920年(大正9年)にはコンクリート製へと改修されました。
同年に、取水口からほど近い地点においては、蟇沼用水を利用した蟇沼発電所が建設され、その電力は塩原電車に利用されていました。
この後、しばらくこの取水口が使用されていましたが、1967年(昭和42年)に始まる那須野ヶ原総合開発の中で、現在の蟇沼頭首工が1979年(昭和54年)に建設されました。

堤長 40.90m
堤高 2.45m
計画洪水量 650m3/s
流域面積 --km2
計面取水量 2.23m3/s

旧木ノ俣頭首工

板室温泉に向かう板室街道に、木の俣橋があり、この木の俣川の上流に旧ノ俣用水取入口があります。この用水は、1763年(宝暦13年)から1765年(明和2年)に木の俣川から取水し、穴沢に至る穴沢用水を起源としています。穴沢用水は、一集落をうるおす小規模な用水でありましたが、1772年(安永元年)には約10㎞下流まで延長され、重要性を増しました(安永堀・細竹用水)。
さらに、1810年(文化7年)には、幕府代官山口鉄五郎の新田開発に利用され、新たに約20㎞の水路開削の工事が完成しました(山口堀)。
これによって多くの水田が開かれましたが、幕末には大半が廃されました。
1887年(明治20年)には、再び水田開発を目指して水路の大改修や流路変更が行われ、戦後になると、戦後開拓地をうるおすために分水され、一段と重要な用水となりました。この用水は、明治以降、総称して木ノ俣用水と呼ばれましたが、1893年(明治26年)開削の新木ノ俣用水に対して、旧木ノ俣用水とも呼ばれています。
なお、1980年(昭和55年)に那須野ヶ原総合開発の一環として、取入口を近代的な設備に改築されました。

堤長 45.00m
堤高 1.00m
計画洪水量 250m3/s
流域面積 --km2
計面取水量 0.495m3/s

新木ノ俣頭首工

新木ノ俣用水は、高林地区の水田開発を目的として、1893年(明治26年)に開かれました。江戸時代からある木ノ俣用水(旧木ノ俣用水)に対して、新木ノ俣用水と呼ばれています。高林地区は水利に乏しく、水田が非常に少ない所のため、村営事業として用水の開削を計画し、1893年(明治26年)着工しました。取入口は集落から4㎞も山間に入った西俣川との合流点すぐ下で、絶壁にトンネルを掘る苦労はいかばかりであったか、渓谷の美しさとあわせて、先人の苦労に心うたれるものがあります。
その後、東那須野村に三分の一の水利権を譲ることにより、1917年(大正6年)大改修工事が完成しました。
1972年(昭和47年)には那須野ヶ原総合開発によって近代的な取入口に改められ木の俣川の清流を流し続けています。
1966年(昭和41年) 7月8日、新木ノ俣用水トンネル内で、土砂の取り除き作業中、作業員59人(63人)のうち25人の犠牲者を出すという、那須野ヶ原開拓史上かってない大惨事を引きおこしました。
事故のあったトンネル出口近くに、木ノ俣隧道殉難者供養塔が建立されています。
その隣りには横川知事夫人によって観音像も建立されました。

堤長 19.90m
堤高 1.00m
計画洪水量 240m3/s
流域面積 --km2
計面取水量 0.545m3/s

戸田調整池

戸田調整池は、広大な那須野ヶ原に安定的な用水供給を行うため設けられたため池で、背景に那須連峰を望み、四季折々の美しい景観が楽しめます。
池に隣接した戸田水辺公園は人々の憩いの場となっており、調整池に飛来する野鳥観察の場としても利用されています。
池では、絶滅危惧種である迷鳥シジュウカラガンが確認されており、非かんがい期においてもゲートの操作を行い、ため池の水位維持に努めています。
池では、斜面を利用した太陽光発電による燃料電池のフィールドテストが実施されているほか、平成11年からは、関東学生トライアスロン那須塩原大会会場として利用されています。
また、栃木県の防災ヘリの取水基地に登録され、平成15年のブリヂストン工場火災では、実際に消火用水として利用されています。

水源 那珂川水系
取水方法 表面取水方式
貯水量 約104万m3
貯水面積 13.3ha

赤田調整池

赤田調整池は、広大な那須野ヶ原に安定的な用水供給を行うため設けられたため池で、古くから水の確保に悩まされ、1885年(明治18年)の那須疏水開削後も、より安定的な水源の確保が必要でした。
この池は、上下流のかんがい時間の違いから生まれる余剰水を利用して、用水供給を安定化させるために整備され、農業用水供給に貢献しています。
毎年1月の野鳥調査では、カモ類を中心に約5000羽の野鳥が確認され、平成16年には、世界でも希少種と言われる「コウライアイサ」のメスが確認されました。
また、池周辺には、「ねじ花」や「シダ類」などの多種多様な植物が植生しています。
夏期には堤体を活用した都市と農村の交流イベント「納涼祭」に利用されるほか、小学校の社会科見学の場としても活用されています。
また、栃木県の防災ヘリの取水基地として登録され、水難救助訓練が実施されるなど地域との関わりが深いため池となっています。

水源 那珂川水系
取水方法 表面取水方式
貯水量 約120万m3
貯水面積 13.8ha

深山ダム

那珂川の本流と塩原渓谷より流下する支流箒川に囲まれた那須野ヶ原は扇状地で地域内の河川は伏流し、特にその北部は地下水位も深く、古くから水不足のため開発が遅れていました。
そのため農林水産省は、那珂川本流の上流深山地点に新しく深山ダムを築造することによってなお広大に広がる那須野ヶ原の未開発地の灌漑をおこない、飛躍的に開発を進める計画を1965年(昭和40年)に立てました。

1968年12月(昭和43年12月)深山ダム建設の鍬入れをしてから5年4ヶ月の歳月と約84億円の費用、延べ42万人の労力を投入し、1974年3月(昭和49年3月)表面アスファルト遮水壁型のロックフィルダムが完成しました。
栃木県北部を一帯とする、日光国立公園の中に作られた深山ダムとその周辺は、渓谷美にすぐれた自然が、今なお多く残されていることから観光名所として多くの人々が訪れています。

水源 那珂川
計画洪水量 840m3/s
最大取水量 11.16m3/s
貯水量 有効貯水量 2090万m3
満水面積 97ha
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